西村賢太の『苦役列車』ー東大文学部卒によるレビュー・感想

気になっていた144回芥川賞受賞作、西村賢太の『苦役列車』を読了した。一言で言えば「劣等感の文学的昇華」と呼ぶべき作品であった。

ネタバレなしのあらすじについてはAmazonのページを参照いただくとして、ここでは本作をすでに読まれた方向けの、ネタバレ含む書評を記していくのでご注意いただきたい。

あらすじ(ネタバレあり)

主人公の北町貫多が11歳のとき、彼の父親は性犯罪を犯す。11歳にして性犯罪者の息子のレッテルを貼られた彼は、社会に受け入れられる可能性を失う。15歳から親元を離れ一人暮らしをし、日給五千五百円の日雇い仕事を始める。

日給はすべて食と酒と風俗に費やし、家賃も払えずに居所を転々とする日々。

18歳の夏のある日、貫多は日雇いの現場に向かうバスの車中で日下部正二という同い年の男性と出会う。爽やかな好青年である。貫多から見れば日下部は「普通に恵まれている人間」であり、まっとうな社会の人間である。対比的に提示された「劣等者」貫多と「優等生」日下部との微妙な交流を通じ、貫多の劣等感の内実が克明に描かれていく。

作中において、貫多と日下部の友情関係は、上に凸の二次曲線のように推移する。自らの境遇をコンプレックスとする貫多には自然と友人が少なく、人と距離を詰めるのがうまくない。そこに現れた日下部は、爽やかに人の懐に入り込む。

貫多はたびたび日下部を酒・風俗に誘い、二人は交友を深めていく。しかし、そこはやはり元々の出自が違う二人。日下部は貫多の下劣な趣味に辟易したのか、次第に距離を取るようになる。

貫多は日下部との距離が遠ざかるにつれ、自らの惨めな境遇と、劣後者である自分へのコンプレックスをあらためて思い知る。貫多は自らの人生を、苦役に満ちた一本の線路にたとえ、そしてその線路上をひた走る自らを『苦役列車』にたとえる。

数年の後、日下部が郵便局員になったことを知った貫多は、これを大したことのない仕事と嘲るが、当の貫多はいまだに日雇いの人足なのである。

感想

日本文学でいえば夏目漱石や川端康成といった正統派の純文学が好みの私である。読む前は「本作はイロモノなのでは」と思っていたが、意外にも気持ちよく読めた。

ご存知のとおり、西村賢太氏は私小説作家であり、苦役列車も彼の実体験に基づいて書かれた小説。1割の話を面白くする”盛り”を除けば、9割は実話であるとのこと。

中卒・性犯罪者の息子という経歴も、西村賢太氏自身の経歴どおりである。それゆえむせかえるほど生々しく、説得力のある作品となっている。また、文章は力強く、流れが良い。

 

ちなみに、北町貫多という名前はあきらかに西村賢太をもじったものである。西を北に、村を町に変換したあたりはどうでもいいポイントだが、賢を貫に変えたところには、少し作者の意図が汲み取れる。つまり北町貫多という人物は、「賢」く生きる(=うまく立ち回る)人物ではなく、不器用な生き方を「貫」く人物として描かれているのである。

 

ストーリーは淡々と進み、意外性はほとんどない。それでも、この奇妙な小説が私小説であり、その主人公が中卒・性犯罪者の息子であるということから、やはり読者は興味を失うことなく結末までページを繰ってしまう。そこにはもちろん、西村賢太氏のリズムの良い文章力も引力としてしっかりと働いている。

今回私がこの小説を「劣等感の文学的昇華」とまとめたのは、はじめにガツンと提示された黒く重い塊のような劣等感が、西村賢太氏独特の語り口、つまり前向きの裏返しとしての鬱屈のような態度によって、どこか爽快な感じを伴いながら気体的に霧散していくからである。

 

北町貫多は、11歳にして父親が性犯罪者という惨めなスタート地点に立たされたわけではあるが、『苦役列車』においての北町貫多は全肯定的に「かわいそうな人物」として描かれているわけではない。

むしろ、北町貫多自身の人間性についても「社会の落伍者」または「クズ」としての要素が明確に、かつ繰り返し描きこまれている。たとえば、家賃を踏み倒してもアパートに住み続けることを当然の権利とでも思っているような態度。日下部の目の前で日下部の彼女を犯すことを夢想する場面。同僚への暴力。

このように北町貫多が歩む人生は、表面的に見れば、決して「不幸な境遇におかれたかわいそうな人」ではなく、むしろ「自業自得により自滅していく落伍者」である。しかしこの「業」の部分を客観的に見つめていったときに、ぼうっと北町貫多の純粋性が浮かび上がってくる。読者はこの作品で描かれる北町貫多に一次的には共感しにくいものの、不器用な自分に苦しむという点が抽出されてきて、それゆえに業から逃れられないのであるという像を見せられたときに、はたと共感してしまうのである。

 

そしてわれわれ読み手は、この私小説の主人公の北町貫多(=西村賢太)が、後に野間文芸新人賞や芥川賞を受賞し、人気作家になっていくということを、小説の外の世界の知識として知っている。

この事実があるから、われわれはこの救いようのない苦しさ・虚しさに終わっていく小説を読みながらも、その苦しみが深ければ深いほど、えもいわれぬ痛快な爽快感をおぼえるのである。

 

さて、この作品を評価しない、面白くないという人もいる。第144回芥川賞を受賞した本作であるが、選評の中には辛口のコメントもいくつかある。その批評文を引用してみよう。

高樹のぶ子:

「人間の卑しさ浅ましさをとことん自虐的に、私小説風に描き、読者を辟易させることに成功している。これほどまでに呪詛的な愚行のエネルギーを溜めた人間であれば、自傷か他傷か、神か悪魔の発見か、何か起きそうなものだと期待したけれど、卑しさと浅ましさがひたすら連続するだけで、物足りなかった。」

村上龍:

「相応の高い技術で書かれていて、洗練されているが、「伝えたいこと」が曖昧であり、非常に悪く言えば、「陳腐」である」

「物足りない」「陳腐である」と、小説、特に純文学的な小説に対する評価としてはなかなか辛(から)い言葉が使われている。

これら否定的なコメントもまた、的を射ていると思う。苦役列車という作品は読者を引き込む魅力が十分にある作品ではあるが、それ以上の深みが無いといえば無い。「中卒・性犯罪者の息子」という逆説的な”魅力”(あるいは商品価値)と、リズムの良い文章力という武器を持っているものの、そこから先に一歩進んだ「哲学的考察」「人間性の真理」であったり、「意外性」といったところで、もう少し踏み込んでくるものがあってもいいのではないかと思う。

『苦役列車』の意味

これは蛇足だが、一応本作のタイトル『苦役列車』の意味を改めて説明しておこう。

116ページの2行目~5行目にはっきりと書かれている。

そして更には、かかえているだけで厄介極まりない、自身の並外れた劣等感より生じ来たるところの、浅ましい妬みやそねみに絶えず自我を侵蝕されながら、この先の道行きを終点まで走ってゆくことを思えば、貫多はこの世がひどく味気なくって息苦しい、一個の苦役の従事にも等しく感じられてならなかった。

上でも述べたとおり、貫多は自らの置かれた惨めな境遇と、そこから抜け出せずに社会の落伍者であり続ける自らの人生を、苦役に満ちた一本の線路にたとえ、そしてその線路上を走り続ける自らを『苦役列車』にたとえているのである。

辞書で調べてみると、苦役の意味は以下のように出ている。

1. 苦しい肉体労働。
2. 懲役など、苦役⑴を伴う懲罰。

ぴったりの言葉ではないだろうか。『苦役列車』という言葉によって、西村賢太氏は、延々と続く日雇いの苦しい肉体労働だけが与えられた人生を、超越的(神的)な存在によって課された「懲罰」に見立てているわけである。

そしてその懲罰が救いのないものに感じられるほどに、われわれは西村賢太氏の現在の活躍を思い出し、半沢直樹の倍返しにも似た爽快感をおぼえるのである。

評価

ストーリー ☆☆☆☆

読みやすさ ☆☆☆☆

哲学的観察 ☆☆

芸術性   ☆☆

総評    ☆☆☆☆

 

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