黒バス脅迫事件と最終意見陳述
「黒子のバスケ」脅迫事件は、犯人である渡邊博史氏が、大人気マンガ「黒子のバスケ」の関連イベント会場に脅迫文を送りつけまくる嫌がらせをした事件だ。リアルタイムで事件が連日報道されていたときは、「なんてくだらない事件なんだ…。」とぼくを含めほとんどの人が一笑に付していたと思う。
でも最近「黒子のバスケ」脅迫事件 被告人の最終意見陳述全文公開 (- Yahoo! ニュース)を読んで、意外と冷静な自己分析だなぁと感心してしまった。長いんだけど、かなり文章がうまくて最後まで読めてしまう。2016年6月時点で9.1万シェアというすごいシェア数も納得。
全文はこちらの生ける屍の結末で読めるらしいので、興味のある方はぜひ。
努力教
最終意見陳述においては「努力教」という言葉が用いられていて、ちょっと共感してしまったので以下に紹介する。
自分は拘置所の独居房で考えを巡らしました。そして、
「現在の日本の国教は『努力教』ではないのか?」
という結論にたどり着きました。この「努力教」の教養は「この世のあらゆる出来事と結果は全て当人の努力の総量のみに帰する」のこれだけです。中世の民の「全ては神の思し召しのまま」という世界観に似ています。言い換えれば「全ては努力の思し召しのまま」です。
恐らくほとんど全ての日本人がこの「努力教」の世界観を持っています。この「努力教信者」は努力という言葉を何にでも持ち出します。拘置所の収容者向けラジオから美空ひばりの曲をリクエストしたリスナーのメッセージとして「ひばりさんは天才のイメージがありますが、陰での努力たるや云々」とDJが読み上げるのが聞こえて来た時に自分は、
「美空ひばりすら努力の枠内に押し込めて語ろうとするのか。凄いご時世だな」
と思い、何とも言えない気分になりました。
かなりおおげさに書かれているにせよ、日本社会の中で「努力」が重んじられすぎているということには、とても共感できる。
当の渡邊博史氏は、5歳で同性愛に目覚め、6歳でいじめにあい、両親も教師もまともに助けてくれなかったという経緯を発端に、自分の人生に興味が持てなくなってしまい、努力することができなくなってしまったらしい。
高校を卒業してからずっと日雇いとフリーターで、年収が200万円を超えたこともなく、「負け犬の最後っ屁」といった思いで、公共の場に毒物を仕込むという罪を犯してしまったらしい。このようにまとめてしまうと救いようもないが、彼は毒物を仕込む際、なるべく被害者が出ないように工夫もしていたみたいで、そこに彼の根っこの部分の優しさのようなものも感じる。
成功=努力量が多い=えらい?
「イチローは天才ではない。努力の人だ。」といった場合、これはふつうに考えれば褒めていると捉えられる。日本には、「天才」よりも「努力の人」を評価する文化がある。「努力」するということそれ自体に価値を見出す。成功者と失敗者の違いを努力量のせいにしてしまう考え方が一般的だ。「だからあなたも頑張ればイチローみたいになれるかもしれない」と。そしてこれは、一見して美しく、また道徳的な考え方であるように見えるが、よくよく考えてみるととても残酷な一面も持っている。
なぜなら、そのような社会では、失敗した人はすなわち怠け者と考えられ、自己責任という大義名分のもとに、軽んじて扱うことが正当化されてしまうからだ。
努力教のもとでは、低収入の人や、仕事のできない人は、「努力を怠ったダメ人間」というレッテルを貼られて、ただの上っ面の成功/失敗だけでなく、その内面まで見下されてしまうことがありえるのだ。「成功=努力量が多い=えらい」の反対の、「失敗=努力量が少ない=怠け者」も多くの人が信じてしまっていることなのだ。これって結構切なくないだろうか?
努力の力の大きさ
努力は大きな力を持っているが、努力だけで全てがどうにでもなるわけではない。
松坂投手などは、「サボリのマツ」と呼ばれていたそうで、横浜高校時代はとにかく練習をサボっていたらしい。それでもあの出来だ。まあ、彼の本当の努力量は誰も知らないのだが…。でも、監督が堂々と「サボっていた」と公言するくらいだから、よほどサボっていたのだろう。
一方のぼくは、自分がいくら毎日朝から晩まで野球を練習したり筋トレをしたりしたとしても、球速100キロを超えるかどうかも怪しいと思う。
「努力は報われる」?
「努力は報われる」というのは、やはり(善意の)ウソだと思う。報われない努力だって山程ある。「努力は報われるとは限らないが、成功者は例外なく努力している」というのも、誇張だろう。松坂みたいに、大した努力もしないで甲子園で大活躍をしてしまうとんでもない才能もいるのだ。正しいのは、「努力は成功を保証しないが、正しい努力は大きな力を秘めている」ではないだろうか?
いずれにせよ、努力を崇拝することは、怠け者を軽んじて見ることにつながり、ぼくにはちょっと危ない考え方のように思われる。
渡邊博史氏の今後
本件は、2014年9月29日に懲役4年6カ月の実刑判決が確定している。とすると、単純計算では2019年3月末には釈放されるはずだ。また、彼が刑務所内で問題を起こすともあまり思えない。服役態度が優良な場合には刑期短縮がありえる。その場合、刑期の4分の3から5分の4くらいでの仮出所が目安とのことなので、2018年3月頃の仮出所もありえるだろう。
氏と面会した方の記事によると、獄中では将棋に没頭しており、他の受刑者からは将棋の先生とも呼ばれているらしい。
氏は、冒頭意見陳述の頃から「釈放されたら自殺する」と繰り返し発言していたが、刑期を経てこの考えは変わっているだろうか。人の心の痛みを推し量るのは難しいが、彼は一人で考え込む性質があるために、袋小路に迷い込んでしまっているのではないかと思う。どうか彼が刑務所内で良い友人を得て、上記を考え直してくれていたらと願う。
顔も含めて有名になりすぎてしまったので、ふつうの仕事に就くのは難しいかもしれないが、彼の文才を考えれば何かしらライター等の仕事で才能を発揮することはできるのではないかと思う。